空ヲ刻ム者
四代目市川猿之助によるスーパー歌舞伎II『空ヲ刻ム者』の東京、大阪での公演が終わったので、感想を書いてみたい。
一言で表すなら、『ヤマトタケル』に代表される先代猿之助(現・猿翁)のスーパー歌舞伎がファミコン的な20世紀型であったのに対し、四代目猿之助が示したのはプレステ的な21世紀型であったということだ。
先代が1986年に始めたスーパー歌舞伎は、現代風な演出や、オペラや京劇などの他の演劇の表現手法を取り入れた新しい歌舞伎であり、内容はヤマトタケルや小栗判官など主人公とした英雄譚が多かった。
1886年は、ちょうどファミコンがブームとなった頃であり、ドラゴンクエストなどのRPGも流行りだした頃である。スーパー○○といった表現も、それ以前はスーパーマンやスーパーカーなどに限られていたが、何にでも“スーパー”を付けて上級感を出すようになったのも“スーパーマリオ”あたりからだ。
先代はあまりゲームをやらなさそうな人だが、当時ゲームが人々の娯楽を席巻していく中で、ゲームに対抗し得る娯楽を提供しようとする気概もあったのかもしれない。あるいはゲームが好きな若者に歌舞伎の魅力を伝えようとしていたのかもしれない。ヤマトタケルや小栗判官、あるいは三国志の英雄たちを題材に選ぶあたりにも、そんな思いが感じられる。
さて『空ヲ刻ム者』だが、先代の主人公たちが皇子であったり、伝説の英雄であったり、三国志のような古の英雄たちといった“特別な存在”であったのに比べ、この主人公、十和は仏師の息子である。仏師としてはそれなりの家に育っているが、地位も権力もない普通の若者である。
また、ヤマトタケルが自身の皇族としての立場や成すべきことについて苦悩するのに対し、十和は仏を彫っても金持ちの道楽にしか利用されず、人々を救うことはできないという仏師としての現状について悩み、仏像を壊して回る。前者が世の中での存在意義という大局的な視点での悩みであることに対し、後者は内向的な視点での悩みである。
このあたりも、ファミコン時代のドラクエに代表されるような、王族や伝説の勇者の末裔といった選ばれた存在で世界を救おうをする主人公と、プレステ以降のファイナルファンタジーに代表されるような、一般人が何となく主人公となるゲームの違いに重なるところがあり、20世紀型の主人公像と21世紀型の主人公像といった対比が感じられる。
物語は、悪の側につく幼なじみの一馬、その一馬を改心させ、共に悪の根源を倒すという、ゲーム的、マンガ的なベタな内容である。
そもそも十和は、仏師の息子でありながら戦闘力が高い。この点の説明はないのだが、後半、師と仰ぐ人が殺され、その師の魂が不動明王に乗り移って復活し、十和と一馬にさらなる超人的な能力が与えられる。猿之助の得意とする宙乗りはこの能力で空を飛ぶ場面で使われ、超人的な戦闘力を授かった永久と一馬は、アクロバティックな演技を繰り広げ、二人で協力して悪の根源を討つのだ。
このあたりは「さすがスーパー歌舞伎!」と唸らせるもので、スピーディーで立体的な殺陣が繰り広げられる。とくに、地上から2階建ての建物に飛び移るアクションは猿之助の運動神経も相まって見ものである。これだけ見ても損はない。
一方で、物語展開は“ご都合主義”といった感も否めないが、そういった点も昨今のゲームやマンガを彷彿させるのだ。
演出や表現手段は以前よりも派手で見応えがあるものになったが、物語としてはありきたり、という点が今回の『空ヲ刻ム者』の感想であった。ケレン味を追求するあまり、物語が薄くなってしまった感じがする。この点も、チープな表現でありながらも練られた内容で長く語り継がれるファミコン世代のゲームと、表現は派手になったが内容が薄い昨今のゲームとの対比に重なるところがある。
猿之助のケレン味がすでに先代を凌ぐほどであることは分かっている。だからこそ、次回作は物語性で魅せるものであってほしい。猿之助ならやれるはずだ。
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