「花燃ゆ」に見る、女性が活躍することの落とし穴

12月 14th, 2015

大河ドラマ「花燃ゆ」が終了した。平均視聴率は、歴代ワーストタイの12.0%とのことだったが、内容から考えると、これでも高いくらいだ。

「花燃ゆ」は、女性を主人公にした歴史ドラマを描くことの難しさを改めて示した。吉田松陰の妹の視点から幕末~明治期を描いたドラマだったが、主人公の視点が幕末~明治の世の中を観ていなかった。彼女の身の回りで起きる、ある意味「どうでもいいこと」ばかりに時間を割いたため、幕末~明治という歴史のダイナミズムを描くことができなかった。

主人公は、単なる歴史の傍観者で良かったと思う。吉田松陰や久坂玄瑞、高杉晋作といった、幕末の志士たちを見守る立場で良かった。そうすることで、視聴者が主人公の視線を通して、幕末~明治の世の中を垣間見ることができたのではないかと思う。

だが、歴史の表舞台にいない主人公を無理に“活躍”させようとしたため、物語が空回りしてしまったようだ。

一方、朝ドラの「あさが来た」は好調だ。こちらは史実に基いて、明治期に本当に活躍した女性、広岡浅子をモデルにしているので、物語に無理がない。主人公の活躍にはリアリティがあり、視聴者は主人公が活躍するたびに痛快を覚え、視聴率も伸びている。

「女性が活躍する歴史ドラマ」。この「歴史ドラマ」の部分を「社会」に変えると、政府の推進する政策の落とし穴が見えてくる。

「女性が活躍する社会」は、能力のある女性、意欲のある女性が、その活躍の機会を性差によって損なうことのない社会のことだ。だが、その意味を取り違え、女性を活躍させようと、無理に下駄を履かせてしまうと、バランスを失ってしまう。まさに「花燃ゆ」のドラマのように内容に乏しい社会になってしまう。

我々が望むのは、「あさが来た」のような社会であることは言うまでもない。

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