神に愛された男と神に拒まれた男
イモラ・サーキットでアイルトン・セナが事故で亡くなってから今日で20年。雑誌ナンバーも特集を組んでいるし、各地で追悼イベントも行われているようだ。私も、20年前に買ったAS+Fのアイルトン・セナ追悼写真集をいまだに捨てられないでいる。
私はセナのファンではなかったが、それもセナは気になる存在だったし、彼の死はショッキングだった。
彼は生前、神についてよく言及していた。それは彼の信仰心によるものなのか、常人では到達できないスピードの世界のトップで戦う人間だからこそ、常人に見えないものが見えたのか、それは定かではない。
だが、彼が神を語ることは彼自身の天才的なヒーロー像とマッチしていた。そして、多くの人が惜しんだ不慮の事故死は、彼の存在やそれまでの活躍を神話のレベルまで高めた。
アイルトン・セナは、神に愛され、神のもとに呼び寄せられたことで、神話的な存在となった。
セナの死後、F1のワールドチャンピオンになった“皇帝”は、F1の数々の記録を塗り替える活躍をした。だが彼の活躍は記録として残るものであっても、伝説として語り継がれるものではない。
彼の名場面を思い浮かべるとき、半ば強引にライバルを蹴落とすような、そんなグレーなシーンがよく思い浮かぶ。それが大勢のアンチを作る原因にもなっていただろう。
彼は昨年末、生死の淵を彷徨うような事故に遭ったが、一命をとりとめたようだ。万が一、命を落としていたとしたら、それまでアンチだったF1ファンをも巻き込み、彼の数々の記録が改めて振り返られ、讃えられ、伝説になっただろう。
だが、神は彼を拒み、自分のもとには呼び寄せなかった。神は彼に伝説に昇華する死を与えず、かつてF1ワールドチャンピオンだった者としての生のみを与えた。もしかすると、彼にとっては死よりも酷い生なのかもしれない。
神に愛された“音速の貴公子”と神に拒まれた“皇帝”、それが二人の根本的な違いだ。
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